元号

新しい元号が令和と知った瞬間、ぎょっとした。第一印象は深層心理をあらわしている。令和は軍事的なイメージに思えた。例えば戦艦『令和』とか。世間はお祝いムードだったが個人的には疑問を感じていた。その後、ニュースやバラエティー番組で令和に否定的なコメントをした人が叩かれていたが、それで少し安心した。やはり違和感を持った人はいたんだなと。

もちろん批判というのはその人の世界観や物語的な視点で生まれるものであり、どんなものでも批判されうる。だから批判のあるなしでその良し悪しを判断することはできないし、どんな意見も個人の私見だと片付けられてしまえば、私のこの文ももちろん私見に過ぎない。

それにそもそも元号というものは一方的に決められ、変えることができない以上、批判することでいいことは何もない。それは元号というシステムの問題でありそのシステムはもともとナショナリズムと結び付いているのだ。明治政府の作った近代天皇制の話をするのもいまさらだろう。

だから令和にファシズムや、戦争の匂いを感じたとしても、黙って認めるしかないし、反発できる勢力も今や皆無だ。要するに日本式ファシズムが完成したのだ。そういう時勢の、まさに象徴的な元号ではあると思う。

そして昨日、平成天皇即位30年の式典に大物芸能人が招かれ、TVでその一部が放映されていた。私の好きな芸能人がいたこと、そして日本のソフトなファシズムをよく理解しているはずのたけしが代表のように祝辞を述べていたのには、もともと期待などしていなかったとはいえ、無力感にさらに追い打ちをかけられる思いだった。

それでもわずかな期待を捨てきれず、もしかすると長い祝辞のなかにたけし流の毒が仕込まれているのではと注視していると、こんな一節があった。

「5月からは、元号が『令和』に変わります。私がかつて居た『オフィス北野』も、新社長につまみ枝豆を迎え、社名を変えて『オフィス冷遇』に改して、タレントには厳しく当たり、変な情をかけないことと決めました」

演説では言い直しや滑舌の悪さもあって聞き取りにくく、細かい意味が伝わってこないので会場では目立たなかったが、読み上げていた文言は、こともあろうに天皇の目前で、令和という名に悪いイメージをかぶせているのだ。時が時なら不敬罪ではないか。自分の事務所の話としてギャグでおさまっており、たけしのキャラクターもあって笑いを誘ってはいるが、これは大舞台でのきわどい火遊びだったのではと思う。

服従の中にも懐刀を光らせる。頭脳戦なら皆対等、笑わせたもん勝ちという、ファシズム社会の中での闘いかたというものを示すのが、たけしの存在の底流にあるように思うが。美化しすぎか?