剛造さん

ジョナス・メカスの訃報に吉増剛造がコメント(読売新聞記事より)

アメリカのロサンゼルスに着いた日の夜、知人からの電話でメカスの死を知りました。それから1週間、喪に服するように、いろんなことを考えていた。彼は「coward」(臆病な人)でした。控えめでシャイ、極限的に繊細な震える心の持ち主が、米国を見えない力で支えていた。生涯の師、友として深い影響を受けた一人の巨人が逝ったのです。

プライベートフィルムの巨匠、ニューヨークの前衛芸術家の代表のようにいわれるけれど、僕の感想は違う。1970年代に初めて見た「リトアニアへの旅の追憶」は、映画の生命に触れる体験でした。ボレックスの16ミリ映画カメラで、一瞬一瞬の小さな幸せの芽生えを切り取っていく。その映像は終始一貫して揺れ、重なり、震えていました。

85年にニューヨークで初めて会った時、握手しようと手を差し出したら、メカスはヨーロッパの古い妖精のように、影のようにすーっと後ろに退いていった。すぐそばにいるのに、途方もなく遠くにいるようなしぐさ。「ああ、これは本物の詩人だ」と直感した。

その時、「時を数えて、砂漠に立つ」を見ました。見終わった後、観客の一人がメカスに質問した。「Why is your movie so shaky?」(なぜ、あなたの映画はこんなに震えているのですか?)。メカスは帽子を取ってお辞儀して口ごもりながら答えた。「Yes, because my life is shaky.」(それは私の人生が震えているから)。

 91年にメカスが日本に来た時、彼は母国リトアニアの言葉で自作の詩を朗読しました。意味ではなく言葉そのものを聞く、夢のようにすばらしい会でした。彼を招いた「メカス日本日記の会」の人たちと一緒に山形や帯広に行き、お酒を飲んだり歌ったりもした。彼はほとんど何も言わず、ただニコニコしてボレックスを回していた。

 会話といっても、白梅の木の枝が芽吹いているのを見て「ここに春が来ているよ」みたいに、筋立てて話すことはない。内気とも違う、詩人特有の沈黙の言語を共有していました。同じように、彼の震える映像には、口ごもったり言葉を失って絶句したり、そうした詩の根源的な何かが息づいている。

 成田空港から出国する際にパスポートを見せる時、メカスが全身でぶるぶる震えていたのを思い出します。たった一人で国境を越える時の孤独感。それがメカスの芸術の根源にある。母国を逃れて異境の地で長く生きた詩人は、言葉の裏にある、もうひとつの隠された言語で、「nowhere to go」(どこにも行く所がない)というメッセージを常に発していました。「coward」で「shaky」なメカスは、今になって思えば、米国のとても大事な、もっと大きな見えない精神を体現していたのでしょう。(よします・ごうぞう=詩人、談)

ー吉増氏は大学で受講していて、当時氏のパフォーマンスなども拝見したこともあり、若き日の思い出に刻まれている方です。久し振りに氏の言葉に触れ、高齢であること、時間の経過をまったく感じない、氏の謙虚さのなかに秘められた何かを感じました。