コロナ禍

久しぶりに書くのですが、この間いろいろありました。私は仕事を変えざるを得なくなり、新しい仕事に慣れるため汗と涙がずいぶん流れました。

書きたいことはたくさんあるのですが、とりあえずこのコロナ渦の第3波と騒がれている今、書き留めておきたいこと。

20代の頃に読んだP.K.ディックのザップガン。けして評価の高くない作品ではあるのですが、そこにちりばめられたアイデアのひとつが、妙に思い出されるのです。

それは郵便で全世帯に送られてくるゲーム。今でいえばプレステみたいなものでしょう。画面上の迷路を歩く熊の子ウーフ。右手のボタンでウーフは迷路を抜け出そうとするのですが、左手のボタンでは迷路に新しい壁を作ることができ、このアンビバレントな同時進行にやっきになると軍事関係者は発狂してしまうという、B級アメコミ的でこれがザップガン(究極の兵器)のオチとして納得できるものではなかったのですが…

コロナは生物的ウイルスであると同時に、マスコミ⇄集団心理のメカニズムをショートさせ破壊する情報的ウイルスでもあります。マスコミは本当に正しい現実を伝えているのか?私達は言われるがまま生活をはぎとられ、さらに脅迫的なプレッシャーをかけられ続ける…それでいいのか?

これでいいのだ~! は今使えなくなっています。私達はどんだけ平和ボケを享受していたことか。

この文を書こうと思った時には、ディックのザップガン的なアンビバレント、生かす心と殺す心の混在は人間のサガだが、コロナ情報でマスコミ⇄集団心理がこのふたつの心のオーバーヒートを起こしており、このままではドロ沼化するが、実はドロ沼化したいという「殺す心」の欲求も、マスコミ⇄集団心理にはありそうだ。…といったことを軸に考えていました。でもそれは平和ボケにのぼせた脳の考えることだと、考えが変わりました。

コロナ禍が陰謀であろうとなかろうと、この現実はもう変えられない。なんとか対処していくしかない。ただ私は、この世、人間の世界を信じる心を失いたくない。

元号

新しい元号が令和と知った瞬間、ぎょっとした。第一印象は深層心理をあらわしている。令和は軍事的なイメージに思えた。例えば戦艦『令和』とか。世間はお祝いムードだったが個人的には疑問を感じていた。その後、ニュースやバラエティー番組で令和に否定的なコメントをした人が叩かれていたが、それで少し安心した。やはり違和感を持った人はいたんだなと。

もちろん批判というのはその人の世界観や物語的な視点で生まれるものであり、どんなものでも批判されうる。だから批判のあるなしでその良し悪しを判断することはできないし、どんな意見も個人の私見だと片付けられてしまえば、私のこの文ももちろん私見に過ぎない。

それにそもそも元号というものは一方的に決められ、変えることができない以上、批判することでいいことは何もない。それは元号というシステムの問題でありそのシステムはもともとナショナリズムと結び付いているのだ。明治政府の作った近代天皇制の話をするのもいまさらだろう。

だから令和にファシズムや、戦争の匂いを感じたとしても、黙って認めるしかないし、反発できる勢力も今や皆無だ。要するに日本式ファシズムが完成したのだ。そういう時勢の、まさに象徴的な元号ではあると思う。

そして昨日、平成天皇即位30年の式典に大物芸能人が招かれ、TVでその一部が放映されていた。私の好きな芸能人がいたこと、そして日本のソフトなファシズムをよく理解しているはずのたけしが代表のように祝辞を述べていたのには、もともと期待などしていなかったとはいえ、無力感にさらに追い打ちをかけられる思いだった。

それでもわずかな期待を捨てきれず、もしかすると長い祝辞のなかにたけし流の毒が仕込まれているのではと注視していると、こんな一節があった。

「5月からは、元号が『令和』に変わります。私がかつて居た『オフィス北野』も、新社長につまみ枝豆を迎え、社名を変えて『オフィス冷遇』に改して、タレントには厳しく当たり、変な情をかけないことと決めました」

演説では言い直しや滑舌の悪さもあって聞き取りにくく、細かい意味が伝わってこないので会場では目立たなかったが、読み上げていた文言は、こともあろうに天皇の目前で、令和という名に悪いイメージをかぶせているのだ。時が時なら不敬罪ではないか。自分の事務所の話としてギャグでおさまっており、たけしのキャラクターもあって笑いを誘ってはいるが、これは大舞台でのきわどい火遊びだったのではと思う。

服従の中にも懐刀を光らせる。頭脳戦なら皆対等、笑わせたもん勝ちという、ファシズム社会の中での闘いかたというものを示すのが、たけしの存在の底流にあるように思うが。美化しすぎか?

 

剛造さん

ジョナス・メカスの訃報に吉増剛造がコメント(読売新聞記事より)

アメリカのロサンゼルスに着いた日の夜、知人からの電話でメカスの死を知りました。それから1週間、喪に服するように、いろんなことを考えていた。彼は「coward」(臆病な人)でした。控えめでシャイ、極限的に繊細な震える心の持ち主が、米国を見えない力で支えていた。生涯の師、友として深い影響を受けた一人の巨人が逝ったのです。

プライベートフィルムの巨匠、ニューヨークの前衛芸術家の代表のようにいわれるけれど、僕の感想は違う。1970年代に初めて見た「リトアニアへの旅の追憶」は、映画の生命に触れる体験でした。ボレックスの16ミリ映画カメラで、一瞬一瞬の小さな幸せの芽生えを切り取っていく。その映像は終始一貫して揺れ、重なり、震えていました。

85年にニューヨークで初めて会った時、握手しようと手を差し出したら、メカスはヨーロッパの古い妖精のように、影のようにすーっと後ろに退いていった。すぐそばにいるのに、途方もなく遠くにいるようなしぐさ。「ああ、これは本物の詩人だ」と直感した。

その時、「時を数えて、砂漠に立つ」を見ました。見終わった後、観客の一人がメカスに質問した。「Why is your movie so shaky?」(なぜ、あなたの映画はこんなに震えているのですか?)。メカスは帽子を取ってお辞儀して口ごもりながら答えた。「Yes, because my life is shaky.」(それは私の人生が震えているから)。

 91年にメカスが日本に来た時、彼は母国リトアニアの言葉で自作の詩を朗読しました。意味ではなく言葉そのものを聞く、夢のようにすばらしい会でした。彼を招いた「メカス日本日記の会」の人たちと一緒に山形や帯広に行き、お酒を飲んだり歌ったりもした。彼はほとんど何も言わず、ただニコニコしてボレックスを回していた。

 会話といっても、白梅の木の枝が芽吹いているのを見て「ここに春が来ているよ」みたいに、筋立てて話すことはない。内気とも違う、詩人特有の沈黙の言語を共有していました。同じように、彼の震える映像には、口ごもったり言葉を失って絶句したり、そうした詩の根源的な何かが息づいている。

 成田空港から出国する際にパスポートを見せる時、メカスが全身でぶるぶる震えていたのを思い出します。たった一人で国境を越える時の孤独感。それがメカスの芸術の根源にある。母国を逃れて異境の地で長く生きた詩人は、言葉の裏にある、もうひとつの隠された言語で、「nowhere to go」(どこにも行く所がない)というメッセージを常に発していました。「coward」で「shaky」なメカスは、今になって思えば、米国のとても大事な、もっと大きな見えない精神を体現していたのでしょう。(よします・ごうぞう=詩人、談)

ー吉増氏は大学で受講していて、当時氏のパフォーマンスなども拝見したこともあり、若き日の思い出に刻まれている方です。久し振りに氏の言葉に触れ、高齢であること、時間の経過をまったく感じない、氏の謙虚さのなかに秘められた何かを感じました。

大きな悲しみ、そして喜び。

生きている、ということ。生きていく、ということ。

わたしたちが生まれてきた、この大宇宙。そして永遠(有限かも?)の時空間、そして

棲家である地球の住み心地、それらと触れていられる、一生の時間ということ。

そんななかでひしめきあう生命は、群れをつくり、孤立し、争い、助け合い、さまざま

な関係をつくっていく。

そしてもしかしたら、この大宇宙にも、生命にも、さらにその外側があるのかも。

 

はじめまして

書き方もなにも制約はないものとして、とりあえず書き始めます。

僕がよくいろんな日常の出来事にひっかかってそこにハマりそうになったとき、

そのことが自分にとってどれだけ大事なことなのかを判断するのによく使うのが、

この世を去るときに思うことか? という自問です。

自分が消えるときには、日常の雑事のほとんどはどうでもよくなるでしょう。

最後に思っていたいこと、一番大事なこと。

日常の生活が、その一番(二番目、三番目・・いくつかありますがそれらを

ひっくるめて)大事なことのためにうごいているかどうか。

道草にすぐハマってしまう僕の、座右の銘です。